2011年4月25日月曜日

感じ方

気がついてみると、最近、原発のニュースを頻繁にはチェックしなくなりました。
慣れてしまったのです。
放射性物質の漏えいは止まっていないので、危険な状況であることは間違いありません。

マスコミが大騒ぎしていないので、危険のレベルが下がっているように感じてしまいます。
危険が小さくなったから報道も少なくなったのか、ニュースバリューが下がったから報道の扱いが小さくなったのかは分かりません。

思えば、新型インフルエンザやエイズのときもそうだったような気がします。最初のうちは過剰に反応し、慣れてしまうと気にならなくなる。
ある程度、対策が功を奏した結果だと思いますが、リスクがなくなったわけではありません。
今、新型インフルエンザやエイズで亡くなる人がいても、マスコミが大きく取り上げることはありません。
ニュースで取り上げても、現状を改善できる見通しがないから報道しないのでしょうか?「報道してもその情報が高く売れないから」という理由ではないと思いますが、情報にも旬の値段があることは確かです。
マスコミの姿勢に問題があるというよりも、受けての感受性を報道する側に見抜かれていたのだと思います。

2011年4月11日月曜日

リーダーシップ

被災者の支援、原発問題の解決、震災復興の面で、真のリーダーシップが求められています。誰が適任なのか分からないけれど、もっと上手くやってくれる人がいるはずだ、そんな空気が流れているような気がします。

小泉待望論や小沢待望論があるようですが、都民が選択した知事も強いリーダー像とマッチする人物です。確かに、パチンコや自動販売機の電気は不急かもしれません。それなら、家庭のゲーム機はどうでしょう?スマートフォンは従来の携帯より電力消費量が大きいので、当面は買い替えない方がいいのでしょうか?
非常時には、パチンコ店を閉店させ、スマートフォンへの買い替えを禁止してしまう法律をスピード成立させてしまうような人が、リーダーシップの強い人と言われるのかもしれません。策が当たって難局を乗りきれば、真のリーダー。危機が残って混乱が大きくなれば、独善と批判されます。そんな事を恐れていたのでは、リーダーシップは発揮出来ません。
ただ、個性の強いリーダーは親米だったり反米だったりと、イデオロギーやポリシーもはっきりとしています。
万が一、アメリカと中国が戦争することになったとき、リーダーシップの強い人がが総理大臣をしていたら、巻き込まれる度合いは大きくなるでしょう。そもそもリーダーシップの強い人は、巻き込まれる側より巻き込む側になろうとするタイプが多いのかもしれません。

選挙の結果がどうであれ、今はだれがトップに適任かを議論しているときでないことは確かです。
それとも速やかな交代を求めるべきなのでしょうか?

2011年4月10日日曜日

永遠の人

Aさんが言いました。
「もし自分に原子力発電の知識があるのなら、今すぐ福島の現場に行って力を貸したい。本心からそう思う」
Aさんは60歳を過ぎている心根の優しい人です。技術屋さんではありません。
普段のAさんを見ている人は、その言葉が偽善でもかっこつけでもないことを知っています。

Aさんに1歳の子供がいたらどうだろう?
ぼくはそう考えてしまいました。
Aさんが30代で独身だったとしたら、きっと同じことを言ったと思います。
でも、幼い子供がいたら同じことを言えたでしょうか?
ぼくなら出来ません。
(ぼくの場合、独身だったとしても言えないと思います。)

Aさんなら、1歳の子供がいても「行く」と言ったかもしれません。
でも、現在の状況で「行く」決心をするよりもハードルは高いと思います。

自分は犠牲に出来るけど、子供は犠牲にしたくない。
子供の安全を確保することは、生物の本能です。それは自分の種族を永遠に残そうとする遺伝子がそうさせているのでしょう。

自分の命を犠牲にして他の動物を助ける人はめったにいません。
しかし、命をかけて原発の事故を防ぎたいと思う人は実際にいます。
それは世の中のためなのか、自分の種族を守るためなのか。
自分の子供を守りたいと思うのも、結局は自分のためなのか?

利己と利他のせめぎあいは、永遠に続くのかもしれません。

2011年4月3日日曜日

言葉の力

「春はあけぼの」
枕草子の冒頭を、誰でも一度は聞いたことがあると思います。

何年か前のことですが、初秋の夜明けを1時間ほど眺めていたことがあります。
真っ暗な夜空が紺色に変わり始め、地平線と並行に走る雲がうっすらと紫色に流れていました。
遠くに見えるビルは小さなシルエットをつくり、背後がオレンジ色に染まりだすと、たなびく雲の上にこがねの色が落ち、イワシの群れが光の海を泳いでいるように見えました。

それは富士山から見るご来光でもなく、名のある観光スポットから見た日の出でもない、普通の景色でした。ぼくが住んでんいるのは、マンションの1階なので、もちろんベランダから地平線が見えるはずもありません。でも、どこにでもある普通の朝に、ぼくは驚愕しました。毎朝、こんな現象が起こっていることを知らずに過ごしてきたことを、モッタイナイ、と感じました。

その時、「春はあけぼの」という有名な言葉を思い出しました。早起きして、ときどきは朝日を眺めてみよう。春のあけぼのは、どんなに素晴らしいのだろう、そう思いました。
残念ながら、春のあけぼのを眺めたことはありません。ぼくの生活は、規則正しいものではなく、春のあけぼのを求めて早起きした朝は、天気予報が外れてしまいました。
それでも、清少納言が残してくれた言葉は、何万何千の人に春のあけぼのを見せたに違いありません。その美しさに生きる勇気をもらった人もいることでしょう。

アルバムが流されても、電気がとまりデジタルカメラの映像を見ることが出来な時代が来たとしても、「春はあけぼの」がつながれば、日本人の心に希望は残るのだと思います。