2011年11月21日月曜日

「ありがとう」と「毎度あり」

電車の中でお年寄りに席を譲って「ありがとうございます」と言われるとちょっと照れるような気がします。
相手が御礼も言わず、当たり前のような顔をして座ったら、たぶんムッとするとことでしょう。

「毎度あり!」と威勢よく言われるのは、すし屋などで料金を払ったあとかもしれません。
この場合「毎度ありがとうございます」と言われても照れることはありませんし、「ありがとう」と言われたときに感じる嬉しさも少ないかもしれません。

料金を払う必要があるのは、物やサービスなどを提供されたときです。この場合、買った物と支払ったお金の価値が等しいと思っているので、「毎度あり」と言われても嬉しく感じないのでしょうか。

逆に、100円の物を50円で売ってもらったら、こちらから「ありがとう御座います」と言う必要があるように感じます。

「『ありがとう』と言ってもらえたら、それだけで嬉しい」という気持ちも自分の中にあるのですが、それは自分が与えた親切やサービスに「言葉の対価」を求めていたからなのか、と思うと結構がっかりです。

「人間の脳はなんらかの報酬がないと喜ばない」と本で読んだのかテレビで見たのか忘れてしまいましたが、珍しく電車の席を譲った今日、こんなことを考えてしまいました。

2011年8月29日月曜日

季節の贈り物

田舎の叔父さんから、梨が送られてきた。
毎年のことで、いつも、嬉しく美味しく頂いている。

ぼくの田舎は栃木県の北の方なので、農業や畜産業は原発事故の影響を大きく受けている。
「今年は原発のことがあるから送るのをやめようかとも思ったけど、毎年のことだし、こっちの人はみんな食べてるから」
となんだか申し訳なさそうに、叔父さんは電話口で話していた。
「実家に帰ったら、栃木のものしか食べてないんだから平気ですよ」
と答えると叔父さんは少し安心してくれたようだった。

震災の後、父母が少し元気をなくしているようなので、今年はいつもより少しだけ多く里帰りしている。
栃木に帰れば、栃木の農産物を食べ、栃木の牛乳を飲む。
父と母は、「それ以外に選択肢がない」と言った。

東京にいれば、西日本の物を買う選択肢がある。
韓国にいれば、日本産の物を買わない選択肢がある。

韓国の人が、「日本の野菜は、九州のものでも買わない」といったら、いやな気持ちになると思うし、ナンセンスだと考えるだろう。
でも、原発事故が韓国で起こったことで、日本の空や大地が昔のままだとしたら、「韓国産の野菜は一切、買わない」という人はたくさん出てくると思う。

結局、選択肢のない人だけがいつも苦しんでいる。

2011年7月27日水曜日

ソフトボールはWカップで準優勝!

なでしこジャパンが女子サッカーのWカップで優勝し、「国民栄誉賞」が検討されています。

アメリカで開催されているソフトボールのWカップでは、残念ながら日本チームは決勝戦で負けてしまいました。
北京で金メダルを取ったときは、エースの上野が脚光を浴びていました。

なでしこジャパンと、上野ジャパン(監督は斎藤だったけど)と、サムライジャパン(原ジャパン?)に国民栄誉賞を!
あと、東洋の魔女にも。

あと、イナバウアーの人にも。
それから、田村でも谷でもママでもメダル取った人とか。

他にも、もらえそうな人が…。

2011年7月20日水曜日

安全神話とリスクの想定

「原発の安全神話が崩壊した!」と言われている。

飛行機の安全神話、海の安全神話、空気の安全神話、
虹の安全神話、水道水の安全神話、蛇の安全神話、
歌の安全神話、新幹線の安全神話、男の安全神話、
ITの安全神話、ガラパゴスの安全神話、机の安全神話、
プラネタリウムの安全神話、夏の安全神話、日本の安全神話

羅列した言葉のうち「安全神話」と相性のいい言葉にリスクがあることは、たぶん想定内なのだと思う。

2011年5月21日土曜日

Estoy aqui

Estoy aqui
スペイン語で、「私は今ここにいます」という意味です。

メール時代の今はでは違うのかもしれませんが、昔スペインの人は旅先で絵葉書を買うと、
Estoy aqui とだけ書いて友達に送ったそうです。
久しぶりに連絡する友達に、近況を報告するでもなく、ただ一言。
元気?とか、どうしてる?とか、私は今○○してます。 とか そんなことを書こうとするとつい面倒くさなって結局、ハガキを送ることもなく旅が終わり、また日常に戻ってしまう。やがて久しぶりに連絡しようと思った友人のことも忘れてしまう。
そんなことがないように、Estoy aquiとだけ書いて送ってしまうのだそうです。

宮城県に住んでいる友人からハガキが来ました。
3月11日以降、連絡が取れていなかった友人です。
「震災で携帯を失い連絡できなかったけど、家族もみんな元気です」
と書いてありました。
ツイッターで無事を発信していたそうですが、ぼくはそれを見ていませんでした。
ハガキには、「このハガキはアナログっぽい人に送りました」とあります。

彼が無事であることは、共通の友人から聞いていました。
それでも、なんだか、とても嬉しくて「Estoy aqui」の話を久しぶりに思い出しました。

2011年5月4日水曜日

リスクと放置

原子力発電所の問題では、「想定外ではすまされない!」という意見をよく聞きます。
原発に限らず、想定すべきリスクを事故が起こるまで放置してしまうのはなぜでしょう?
・酔っ払いが駅のホームから落ちるリスク
・スピードを出しすぎると曲がりきれないカーブ
・長時間労働で過労死しそうな社員が沢山いる会社
地下鉄のホームが二重ドア化されたり、道路にガードレールが出来たり、会社が残業を規制したりするのは、事故が起こって社会問題化した後です。

結局のところ、対策に必要なコストよりも守るべき利益の大きさが明らかになったときにしか動かないのが人間社会なのでしょう。
人間の命を利益に置き換えることは出来ません。だから、死亡事故が起きるとすぐに対策が実施されます。しかしそれさえも、マスコミやネットワークにより「公然になった死」だけが対象なのかもしれません。ほとんどの人が知らない「小さな死」があっても、費用を出し惜しむことだってありそうです。

めったに車の通らない道路にガードレールを設置するにもコストはかかります。
そこまで必要ないでしょう、とみんなが思っていたところに事故が起こってしまった。
だから、ガードレールを設置した。

リスクの共感が未然に事故を防ぐ方法だと思います。

2011年4月25日月曜日

感じ方

気がついてみると、最近、原発のニュースを頻繁にはチェックしなくなりました。
慣れてしまったのです。
放射性物質の漏えいは止まっていないので、危険な状況であることは間違いありません。

マスコミが大騒ぎしていないので、危険のレベルが下がっているように感じてしまいます。
危険が小さくなったから報道も少なくなったのか、ニュースバリューが下がったから報道の扱いが小さくなったのかは分かりません。

思えば、新型インフルエンザやエイズのときもそうだったような気がします。最初のうちは過剰に反応し、慣れてしまうと気にならなくなる。
ある程度、対策が功を奏した結果だと思いますが、リスクがなくなったわけではありません。
今、新型インフルエンザやエイズで亡くなる人がいても、マスコミが大きく取り上げることはありません。
ニュースで取り上げても、現状を改善できる見通しがないから報道しないのでしょうか?「報道してもその情報が高く売れないから」という理由ではないと思いますが、情報にも旬の値段があることは確かです。
マスコミの姿勢に問題があるというよりも、受けての感受性を報道する側に見抜かれていたのだと思います。

2011年4月11日月曜日

リーダーシップ

被災者の支援、原発問題の解決、震災復興の面で、真のリーダーシップが求められています。誰が適任なのか分からないけれど、もっと上手くやってくれる人がいるはずだ、そんな空気が流れているような気がします。

小泉待望論や小沢待望論があるようですが、都民が選択した知事も強いリーダー像とマッチする人物です。確かに、パチンコや自動販売機の電気は不急かもしれません。それなら、家庭のゲーム機はどうでしょう?スマートフォンは従来の携帯より電力消費量が大きいので、当面は買い替えない方がいいのでしょうか?
非常時には、パチンコ店を閉店させ、スマートフォンへの買い替えを禁止してしまう法律をスピード成立させてしまうような人が、リーダーシップの強い人と言われるのかもしれません。策が当たって難局を乗りきれば、真のリーダー。危機が残って混乱が大きくなれば、独善と批判されます。そんな事を恐れていたのでは、リーダーシップは発揮出来ません。
ただ、個性の強いリーダーは親米だったり反米だったりと、イデオロギーやポリシーもはっきりとしています。
万が一、アメリカと中国が戦争することになったとき、リーダーシップの強い人がが総理大臣をしていたら、巻き込まれる度合いは大きくなるでしょう。そもそもリーダーシップの強い人は、巻き込まれる側より巻き込む側になろうとするタイプが多いのかもしれません。

選挙の結果がどうであれ、今はだれがトップに適任かを議論しているときでないことは確かです。
それとも速やかな交代を求めるべきなのでしょうか?

2011年4月10日日曜日

永遠の人

Aさんが言いました。
「もし自分に原子力発電の知識があるのなら、今すぐ福島の現場に行って力を貸したい。本心からそう思う」
Aさんは60歳を過ぎている心根の優しい人です。技術屋さんではありません。
普段のAさんを見ている人は、その言葉が偽善でもかっこつけでもないことを知っています。

Aさんに1歳の子供がいたらどうだろう?
ぼくはそう考えてしまいました。
Aさんが30代で独身だったとしたら、きっと同じことを言ったと思います。
でも、幼い子供がいたら同じことを言えたでしょうか?
ぼくなら出来ません。
(ぼくの場合、独身だったとしても言えないと思います。)

Aさんなら、1歳の子供がいても「行く」と言ったかもしれません。
でも、現在の状況で「行く」決心をするよりもハードルは高いと思います。

自分は犠牲に出来るけど、子供は犠牲にしたくない。
子供の安全を確保することは、生物の本能です。それは自分の種族を永遠に残そうとする遺伝子がそうさせているのでしょう。

自分の命を犠牲にして他の動物を助ける人はめったにいません。
しかし、命をかけて原発の事故を防ぎたいと思う人は実際にいます。
それは世の中のためなのか、自分の種族を守るためなのか。
自分の子供を守りたいと思うのも、結局は自分のためなのか?

利己と利他のせめぎあいは、永遠に続くのかもしれません。

2011年4月3日日曜日

言葉の力

「春はあけぼの」
枕草子の冒頭を、誰でも一度は聞いたことがあると思います。

何年か前のことですが、初秋の夜明けを1時間ほど眺めていたことがあります。
真っ暗な夜空が紺色に変わり始め、地平線と並行に走る雲がうっすらと紫色に流れていました。
遠くに見えるビルは小さなシルエットをつくり、背後がオレンジ色に染まりだすと、たなびく雲の上にこがねの色が落ち、イワシの群れが光の海を泳いでいるように見えました。

それは富士山から見るご来光でもなく、名のある観光スポットから見た日の出でもない、普通の景色でした。ぼくが住んでんいるのは、マンションの1階なので、もちろんベランダから地平線が見えるはずもありません。でも、どこにでもある普通の朝に、ぼくは驚愕しました。毎朝、こんな現象が起こっていることを知らずに過ごしてきたことを、モッタイナイ、と感じました。

その時、「春はあけぼの」という有名な言葉を思い出しました。早起きして、ときどきは朝日を眺めてみよう。春のあけぼのは、どんなに素晴らしいのだろう、そう思いました。
残念ながら、春のあけぼのを眺めたことはありません。ぼくの生活は、規則正しいものではなく、春のあけぼのを求めて早起きした朝は、天気予報が外れてしまいました。
それでも、清少納言が残してくれた言葉は、何万何千の人に春のあけぼのを見せたに違いありません。その美しさに生きる勇気をもらった人もいることでしょう。

アルバムが流されても、電気がとまりデジタルカメラの映像を見ることが出来な時代が来たとしても、「春はあけぼの」がつながれば、日本人の心に希望は残るのだと思います。

2011年3月16日水曜日

豊かさ

毎日計画停電がある世の中と、100年に一度くらいこんな事故が起こる社会。
落ち着いたら、どちらかを選らばなければならないのかもしれません。

もちろん「100年に1度」に根拠はありませんが、自然災害に限らず戦争やテロで原発が攻撃されるリスクもあります。

今なら「原発のない社会がいい」と言い、10年後なら「停電のない社会いい」という気がします。

命が虚しく消えてしまうことのない世の中、それさえあれば豊かでなくても幸せなのだと思います。

2011年3月12日土曜日

日常と非日常

2011年3月11日 23:30分の新橋は、日常と非日常が交錯する不思議な街でした。

居酒屋で酒を飲む人もいれば、カラオケボックスで歌う人もいました。
カラオケ店の入り口に「1~6名様でのご利用は出来ません」という張り紙がありました。どんなに狭い部屋にも7名以上入れるつもりのようです。
「3名ですけどダメですか?」と聞いてみると、
「たった今満室になりました。部屋が空いても、7名以上でのご利用をお願いしています。延長もあるので、空かない可能性もあります」
とのことでした。
「皆さん、避難所として利用しているのですか?」と聞けば
「ガンガン、歌っている人もいます」
との答え。

カラオケボックスなら歌って当たり前ですが、帰宅できない人たちにロビーを開放しているホテルを見てきた後だったので、日常と非日常が隣り合わせにある不思議を感じてしまいました。
駅の改札口付近や階段の手前にブルーシートが敷かれ、疲れた表情で座り込み電車の復旧を待つ人々。
通常通りに営業する居酒屋で、いっき飲みする若者。

路上の大型スクリーンでは、東北地方の大惨事が流れているというのに。

でも、そのニュースを見て、ただ街を歩いていた自分と違いがあるのだろうか。

2011年3月5日土曜日

政治とカネ

現 外務大臣に限らず「政治資金収支報告書」の記載に誤りがあった、というニュースはよく聞きます。

50万円も出してパーティー券を買ってくれた会社の名前を間違えるような人たちが、国の予算を作ってるんだから、そりゃあ、間違いも沢山あるだろね。

政治家にとっての50万円は、庶民の50円くらいの感覚なのかもしれません。
でも1兆円売り上げる企業だって、50万円の入金先を間違うことはありません。